極私的松田聖子エピソード集 part21

今回でこの連載は終わりです

休業前最後の武道館3daysで燃え尽き、失意のどん底だった頃にリリースされた「ボーイの季節」や「The 9th Wave」は、それまでの作品と同じ精神状態で聴くことは不可能だった。

今でもこれらの作品を聴くと1985年6月のあの頃が、一瞬にしてフラッシュバックしてくる。一種のPTSDかもしれない。僕は一生「ボーイの季節」や「The 9th Wave」を冷静に聴くことができないのかも。

そういった意味では、全ての作品に対してフラットな気持ちで聴くことができる後追い世代が羨ましくもある。彼らからしたら、僕みたいに80年代をリアルタイムで体験してきた世代が羨ましいのかもしれないが。

これって、どっちがいいんだろうね?

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6月24日の結婚式当日は、朝からほぼ一日“聖輝の結婚”がテレビ中継されていた。見たくないような見たいような複雑な気持ちだったが、結局全て見てしまった。

式が行われたサレジオ教会は僕の家から直線距離で2km程度だったので、朝から家の上空をマスコミのヘリコプターが行き来してて、嫌でも“一大イベント”ということを実感させられた。

その数年後、地元の友達の結婚式でサレジオ教会へ入ったことがあるが、気持的には微妙でしたね。牧師も同じヨハネ・ペトラッコ師でした。参加者全員で一緒に撮った写真があるけど、牧師とのツーショット写真も撮ってもらえばよかったかな。

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披露宴で一番印象に残ったのは、河合奈保子さんが友人代表としてスピーチしたことだった。

奈保子さんが“友人代表”といえるほど仲がいいエピソードなんて聞いたことなかったし、二人がプライベートでも親交があるような気配もなかった。

このへんは今更詮索してもしょうがないけど、奈保子さんに頼むしかなかったのだろう。それを快く受けてくれた奈保子さんの大人な対応は素晴らしかったと思う。

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休業後も年末の「紅白歌合戦」や「レコード大賞」で姿を見かけることはあった。それらはまぁいい。

良くないのは、「石原軍団のお正月」みたいな特番で、聖子さんが“一歩引いた若奥様”的な姿を見せてたことだった。

松田聖子よ、あなたはそれでいいのか!、と心底思った。

歌手として絶頂だった時期に休業し、やってることは石原軍団の飯運びだ。よりによって「石原軍団」というのが余計に腹立った。

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そんなこともありつつ、出産後久しぶりにコンサートをするというのでチケット購入。

いろいろ思うところもあるけど、まぁ楽しみましょうや、と気持ちを高めていたところに発売された写真集「Five Seasons」の後半ページで、またもや奈落の底に突き落とされた。

松田聖子よ、まだ俺達に試練を与えるのか!

そんな中開催されたのが2年ぶりのコンサートツアー「SEIKO SUPER DIAMOND REVOLUTION」だった。


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その後、休業前の心配は何だったのか?、と思えるほどに精力的なステージ活動を続けているのは、皆さん御存知のとおり。

























この時代のチケットの半券はあと数枚行方不明になってるので、今現在載せられるのはこれだけ。

それにしても“ぴあ”などのオンラインチケットが主流になって以降、チケットのデザインが味気なくてつまらないですね。ディナーショーなどは写真入りのチケットのようですが。

2001年にパシフィコ横浜で観た時は僕の3列前に沙也加が座ってたので久しぶりに間近で彼女を見たが、今思えばあれは「アイスの実」のCMで本格的にメディアデビューした直後ということになりますね。

あと、この中で思い出深いのは2007年に、念願だった聖子さんの地元福岡公演を観に行ったこと。この時も沙也加が観に来てて、MC中に急遽ステージに上げられてました。何故か僕は沙也加との遭遇率が高い。

福岡公演の時は公演前に久留米に行って、聖子さん縁の地を巡ろうかと思ってたんだけど、体調不良につき断念。夜のコンサートまでホテルで休養してました。

デビュー当時は今とは違って個人情報の扱いに無頓着な時代だったから、生家や通ってた小学校の写真なんかも普通に雑誌に載ってて、行ったこともないのにそれらの位置関係がバッチリ頭に入ってた。

もし今久留米に行っても、地図無しで大体廻れるかも。ただ、もうかなり風景は変わっちゃってるんだろうね。よく知らないけど。

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神田氏と結婚してた頃、武道館の1階南スタンド最前列中央は「マッキーシート」と呼ばれ、神田氏がよくそこに座っていた。沙也加も5,6歳くらいの頃から、父親の隣の席に座ってたのを何度か見たことがある。

2番目の旦那の波多野氏も武道館で見かけたことあるけど、さすがにマッキーシートには座ってなかったですね。当たり前か。

沙也加の話がでたついでに、SAYAKA時代のサイン。

友達が店長をしてる近所のホルモン焼き屋にて。撮影は2006年1月。この書式のサインは珍しいかも。

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90年代前半頃は集客力が落ちて、武道館の2階スタンドが空席だらけ、なんてことがよくあった。

その頃は招待券も大量にバラ撒いていたようで、僕も“松田聖子の招待券貰ったから行く?”と誘われたことがあった。既に自腹でチケットを購入済みだっただけに、余計に切ない気持ちになりましたね。

あれからよく持ち直したなぁ、としみじみ思う。

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この時代の映像作品はレーザーディスクで購入してましたね。もう見ることはないだろうけど、レーザーディスクはアナログ盤と同じでジャケットが大きいから、持っているだけで嬉しい。


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ビデオシングルディスクやCDVなんていうメディアがあったこと憶えてますか?僕はこれを見るためだけにコンパチブルプレーヤーを買いました。


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聖子さんの輸入盤12インチはこれしか持ってない。サイズの比較対象として余計なCDが1枚混ざってますが気にしないでください。「GOOD FOR YOU」の12インチはどこにも売ってなくて、都内の輸入盤店を片っ端から廻った思い出が・・・。


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これはアルバム『Seiko』のロングボックス。


輸入盤のCDが出始めの頃、このような紙の長い箱にCDを入れて出荷し、そのまま陳列していた店があった。これならそれまで使用していたアナログ12インチの棚にそのままCDが陳列できた為、CD用の棚を新たに購入する手間と費用が省けたわけだ。移転前のタワーレコード渋谷店などがこのパターンでした。

しかし多くの店はプラケースに入ったCDだけを陳列し、ロングボックスは破棄してしまっていた為、現存している数は少ない。

レコードからCDへの過渡期に考案された苦肉のアイデアではあったが、今となってはレアな逸品。

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フローレスセイコが開店準備に入った頃、知り合いの女性Oさんが退職した。

訊けば、松田聖子がオープンするお店で働くためだとか!Oさんは僕が聖子ファンだということを知らない。

あれから30年近くの月日が流れたが、果たしてOさんはまだ聖子周辺で働いているのだろうか?それとも結婚して子供が生まれて親子で聖子ファンをやってたりするのだろうか?孫と3代でファン、という可能性だってある。

Oさんが偶然このブログを見つけて読んでいてくれたりしたら、ちょっと嬉しい。

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松田聖子のコンサートに初めて行った人の感想で、「MCが上手くて驚いた」という意見を見かけることが多い。特に、遠慮なく聖子さんに話しかける客を自然にあしらう姿を見て、「さすが○十年もステージに立ってる人は違うなぁ」と思うそうだ。

でもあれは、○十年もの経験によって培われたものではなく、天性のものなのです。聖子さんはデビューした年から、全くあのままでした。

驚くべきところは、「○十年やってるだけあって上手い」ではなくて「最初からアレだった」ということなのだ。

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松田聖子関連の書籍やパンフレットの類は、2000年頃までに発売されたものに関しては全て購入していたので、コンプリートしてるハズ。

それらはファンサイトなどで紹介されてる物も多いし、画像検索すれば表紙くらいは目にすることもできる。しかもネットオークションを利用すれば現物が簡単に手に入るので、あえて僕が紹介することもないだろう、という理由で掲載は見送っていた。

しかし、ずっと僕の胸に突き刺さったままの“ある一冊”については検索しても詳しい情報が見つからないので、じゃあ僕が書くしかないな、ということで珍しく書籍紹介。

それがこの「松田聖子が好きだった」。


1991年3月11日発行。某ミニコミ誌の別冊という形で発売された。昨年惜しくも閉店してしまった神保町の書泉ブックマートにて購入。

松田聖子が好きだった」というタイトルが表すように、これが発売された1991年という年は、まさに“松田聖子バッシング”のピークだった。

序盤のこの文章が当時の状況を全て表していると思う。

はじめに

もう最初に話してしまいます。

松田聖子さんは嫌われています。

みなさん、ご存知ですよね。そのことです。
もちろん、僕らもそんなことはわかってます。
でもどうですか。
あなたが「聖子なんか嫌い」と思った時。

その時、何かを忘れていないでしょうか。

実は僕らはそこから始めてみました。
ほんとうに僕らは松田聖子さんのことが嫌いなのか。
そういう軽い疑問から、この本を作りました。

流されて、嘘をついてしまった。
僕らや、そしてあなたが、
この本をパラパラめくって、
ああでもない、こうでもないと、一瞬でも思って下さればうれしいです。

聖子ファンを公言すると白い目で見られたり、かつてファンだった人が周りに流されてアンチと共にバッシングに加わったり、なんて時代が本当にあった、ということがこの序文だけでわかると思う。

そんな頃に偶然この本を書店で見つけて、タイトルが胸に刺さったと同時に、ちょっと救われた思いがした。

残念ながら書籍の性質上、広範囲には流通しなかったので、人の目に触れる機会は少なかった。現在ネット上でこの本に触れてる人がいないのはそのためだろうが、1991年時点での「松田聖子論」としてはこれが決定打かもしれない。

後半に掲載されてる「女性週刊誌が追った11年」は、デビューから1991年までに女性週刊誌に掲載された松田聖子関連の膨大な量の見出しがまとめられたもので、データとしても見応えがある。

現在では入手が難しいのが残念。

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「Romance」、「瑠璃色の地球」の作曲でお馴染み、平井夏美こと川原伸司さんのサイン。


川原さんとは3回お会いしたことがありますが、いつかサインを頂ける機会があったらこれに書いてもらおうと持ち歩いていたのが、DR.RIVERBEACH & HIS ORCHESTRAの「THE GOOD-BYE SONG BOOK」のCD。DR.RIVERBEACHは川原さんの変名です。

これのアナログ盤は今でも容易に手に入るけど、CDはほとんど市場に出てなくて再発もされていないので非常にレア。

サインを書いてもらおうと川原さんに差し出した時の第一声が、“よくこれ持ってたね!”だった。

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個人的に松田聖子の功績として最も重要なことのひとつに、多くの素晴らしいフォロワーを産むきっかけを作ってくれた、というのがあって、いつかそちらもきちんと書かなきゃな、と思ってます。

その足がかりとして、こんなのを作成中。

「今だからこそ松田聖子ファンに聴いてもらいたい聖子フォロワー」

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こんな連載を書いてると、僕のことをまるで「松田聖子博士」かのように思って質問してくる人がいるけど、インターネット普及以前の時代であれば確かに詳しいほうだったかもしれないが、今はネットで情報を掘れば誰でも「松田聖子博士」になれる時代なので、現在の知識量は皆さんのほうが遥かに上だと思いますよ。

僕はただの「松田聖子の最初の5年間を数え切れないほど生で観ただけの人」でしかないのです。


おわり

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この連載は今回で終了です。ご愛読ありがとうございました。

part1から読み直す


【お願い】

この連載「極私的松田聖子エピソード集」にリンクを張る場合は

タイトル:極私的松田聖子エピソード集
URL:https://kzroom.hatenablog.com/entries/2015/09/17

でお願いします。

リンクを張る際の事前・事後の報告は一切必要ありません。


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【あとがき】
この連載を始めたきっかけは、部屋を片付けてたらレア物がいろいろ出てきたから、それらをネタに松田聖子に関する極私的なエピソード集でも書いてみようかな、と思い立ったから、というようなことを最初に書いたと思う。確かにそれもきっかけのひとつであることに間違いない。

ただ以前から、聖子さんに関して誰もネットに書いてないこととかちゃんと記録しておかなきゃな、という思いはあった。自分が元気なうちに。

そう強く思うようになったのは、僕と世代が近いミュージシャンや同級生の訃報を聞くことが多くなったから。

僕が今、命に関わるような病を患っている、ということは全くないのだけれど、いつ何があるか人間わかりませんからね。

まだブログやSNSなんてものが存在しなかった頃から個人でサイトを立ち上げて、どうでもいいことをネットに書き散らして20年。振り返ってみたら、松田聖子のこと全然書いてないじゃん、ということに気がついた。

幸運にも僕は彼女のデビュー当時からリアルタイムで現場を見てきた人間だ。僕にしか書けないことが沢山ある。楽曲やライブのレビューみたいなことは他のマニアの皆さんが散々書いてるので、僕が今更書いても意味がない。なのでこういった内容の連載になった。

記事中に“行方不明”だとか“見つかったら掲載します”みたいな表現が多々あったと思うが、なぜ大事なものなのに所在が不明になってしまっているのかというと、1995年に実家をリフォームした際に私物の大移動があって、それ以来何がどこにあるのかわからなくなってしまったのです。あと2005年頃にも家庭の事情で部屋の移動があり、混迷化に拍車がかかってしまった。元の自室は完全に資料だけの部屋となり、ドアを明けて中を見ただけでウンザリする。とてもこの中からお目当ての物を探し出す気力は起きません。でも見つけ出さなければいけないものがある。

連載が終わるまでに見つけたかった物の筆頭が、“秘蔵ライブ音源”だ。1985年までの主要なコンサートのほとんどをノーカットで収録したテープがごっそりあるんだけど、これは是非皆さんに聴いてもらいたい。現時点で7割くらい見つかってるので、あともうちょっと。全部揃ったらデータ化して公開したいところだが、逮捕されたら嫌なので何かいい方法を考えます。

その前にテープを探さなきゃね。腰が重いけど。


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【追記】(2016.06.17)
“秘蔵ライブ音源テープ”全て発掘されました。

発掘開始から9ヶ月、トータルで100時間以上はかかったかも。

もう何度も心が折れそうになって断念しかけましたが、やっと肩の荷が降りました。しかも持ってることをすっかり忘れてた日のライブ音源まで見つかった。あとはデジタル化するだけ。もうこの勢いで来週くらいから作業開始します。たぶん。

この連載を始めた頃、全く反応ないし5人くらいしか見てないし、やっててかなり虚しかったのが正直なところ。内容には自信あったんだけどなぁ。

連載を終えてしばらく経った頃、あんなところやこんなところで僕のブログが話題になってたのを知った。特に最初に載せた“うっかり聖子ちゃんにぶつかってしまった事件”の写真はインパクトあったみたいね。でも僕の音源コレクションのインパクトはあんなもんじゃないよ、とだけ書いておきます。


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【追記】(2016.07.01)
遂に本日、第一弾を世に放ちました。


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【追記】(2016.07.03)
1982年12月25日に行われた松田聖子のコンサート「クリスマスクイーン」とがっつり向き合った一週間。

テレビ放送された昼公演の映像、ラジオ放送された夜公演の音源、個人で所有していた昼公演の全曲収録音源を何度もリピートした。

もはや僕は完全に「クリスマスクイーン」博士状態だ。

先日無事に昼公演の音源は特定メンバー向けに放たれたので、次のコンサート音源を解き放つ準備に取り掛からなければならない。たぶん年内はずっとこの作業に追われることになると思う。

僕は聖子さんの80年代の活動についてはコンサート単位に考えてるところがあって、例えば1983年の暮といえば「Canary」が発売された頃、というよりは「Seikoland」を見に行った頃、という発想になってしまう。これはリアルタイムで追ってた人特有なのかもしれない。

そういうわけで、年内はずっと掛かり切りになるであろう、僕が所有してるライブ音源のデジタル化作業が楽しみでしかたない。

僕の資料部屋の捜索活動は、当初の目標であったライブ音源が全て見つかったので、ひとまず終了ですかね。

以前にも書いた日本テレビの「タウン5」を見に行った時に撮った写真とか、新人の頃に参加した各種音楽祭の入場整理券の未使用分とか、まだ探したいものもあるにはあるが・・・。

当時は“○○音楽祭”みたいのが沢山あって、そのうちのいくつかを見に行ったけど、どれに行ってどれを見てないのか記憶がさっぱりなので、入場整理券が出てくれば多少は記憶が蘇るかな、なんて期待もしてるんだけど。

まぁそちらは来年かな。