“言ったもん勝ち”論

Ocean Side一部の「はてな」内音楽好きの間で交わされている、「淡谷のり子とブルーズ論」、楽しく拝読させてもらってます。

ところでこの“BLUES”をカタカナ表記する時に“ブルーズ”と書くようになったのはいつ頃からなのかわからないけど、幼少の頃から“ブルース”で親しんできた耳にはひじょうに気持ち悪いので、ここでは“ブルース”で統一することにします。松本隆さんは、ひらがなで表記するのが好きだったみたいですが(例:近藤真彦スニーカーぶる〜す」、原田真二「てぃーんずぶるーす」等)。

さてと、ブルース。初めてその単語を耳にしたのは、たぶん「ブルースの女王:淡谷のり子」とか「伊勢崎町ブルース」とか、そのへんあたりだと思う。子供の目から見ると、派手なメイクとドレス姿で歌う彼女達の姿はインパクト大で、明らかに他の歌謡曲歌手や演歌の人達とは違って見えた。そこで植えつけられたイメージは、「ブルース=水商売」。たまたま近所に住んでいた水商売のお姉さんが、夕方頃出勤する時に道で擦れ違ったりすると、プーンと化粧くさい匂いがした。“おぉ、ブルースの香り!”などと思ったもんです。

12歳の誕生日にギターを買ってもらい、日々練習に明け暮れた。やがてエリック・クラプトンに行き当たり、スリーコードやペンタトニックを学んだ。彼の奏法を解説してるギター雑誌などを見ると、やたら“ブルース”という文字が目に入った。久しぶりに目にした“ブルース”。しかしこれは、ボクが知ってるブルースと同じなのか?同音異義語なのか?うん、きっとそうに違いない。だって、クラプトンとケバケバしいお姉さんとは、あまりにギャップがありすぎる。これは別のものに決まってる。そう納得した13歳のボク。

やがて菊池桃子がロック宣言して、ラ・ムーとしてバンドデビューした。この時に、“言ったもん勝ち”ということを学んだ。と同時に、“淡谷先生もクラプトンもブルース”と、自分の中では決着がついた。

「ロックオデッセイ」の稲葉浩志を聴いて“オレのロックじゃない”と火災報知器のボタンを押した青年や、先日ロック宣言した(言ってないけど)鬼束ちひろを聴いて違和感を感じた人達が、自分の中で決着をつける日が来るのかどうかわからないけど、何かきっかけとなるような人が現れたらいいのにな、とは思う。そういった意味じゃボクにとって菊池桃子は、リスナー人生におけるエポックメイキングな存在だったんだな、と改めて思った。

ちなみに、生まれて初めて買ったCDが彼女の『Ocean Side』だということは、以前やってたサイトでも告白済み。

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