B’z援護論

B’z

B'zというユニットは、デビュー当時から現在に至るまで事ある毎に、ウルサ型のロック好きな諸兄に叩かれてきたワケですが。大概その際によく引き合いに出されるのが、“パクリ”の件。

ナゼ同じパクリでも奥田民生は好意的に受け入れられて、B'zは叩かれることが多いのか?それは、元ネタに対する愛情や尊敬の念が有るとか無いとかの違いだ、と、よく言われる。じゃぁ、B'zのパクリは元ネタに対して愛情が無いのか?と言ったら大間違いで、それは松本孝弘のギタースタイルを聴けば、一聴瞭然だろう。ギターというのは、流行のフレーズやサウンドを借りてきてちょっと真似てみました、なんて軽い気持ちでパクってみたところで、自分の血にはならない楽器だ。松本孝弘のギターには、彼が少年時代からコピーしまくったであろう、ジミー・ペイジジョー・ペリーエドワード・ヴァン・ヘイレン、その他大勢のギタージャイアンツ達のエッセンスを随所に聴き取ることができる。これはもはや、彼の血となり肉となった結果であって、昨日や今日出来たものでは無い。彼の楽曲作りやアレンジに関しても然りである。そこに愛情は無いと言えるのか?

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先日のロックオデッセイで、稲葉浩志のライブを観た男性が、“オレのロックと違う!!”と、会場の火災報知機のボタンを押しまくって逮捕された、というマヌケな事件があった。

この件を知って真っ先に思い出したのが、ボブ・ディランが1965年にニューポート・フォーク・フェスティバルに出演した際、フォークの祭典にエレクトリック・ギターを持ち込んだため大ブーイングを浴びた、という有名なエピソード。ディランにブーイングをした客と火災報知機のボタンを押した男性の心理状態って、おそらく近いもんがあったんじゃないかと思う。

その後ディランは、楽器がどうとか、そんなこと問題じゃないぜと言わんばかりの作品を発表し続け、確固たる地位を築いたのは御存知のとおり。2002年には因縁のニューポート・フォーク・フェスティバルのステージに37年ぶりに登場し、大喝采を浴びた。稲葉浩志も、37年後に名誉を挽回すればそれでいいじゃないか、とまでは言わないけど、必ずやいつか、ウルサ型のロックオヤジに納得してもらえる存在になってくれるであろうと期待している。何年かかるかわからないけど、時代が証明してくれるハズだ。

ところでB'zというのは、デビュー当時に、“どうせ10年後には消えてるよ”と、よく言われたもんである。それがどうだ。15年以上経った現在でも、トップクラスの人気を誇ってるではないか。時代は証明してみせたぞ。お前らの目は節穴だったとね。なのに、ウルサ型のロックオヤジの評価は相変わらずだ。これって何?“オレのロックと違う”からか?

果たして“ロック”とは何なのか?。音楽の一ジャンルなのか生き様なのか。そのへんの考え方は、人それぞれだろう。つんく♂に言わせれば、W(ダブルユー)ですらロックになってしまうくらいだ。

The Whoの初来日という、ウルサ型のロックオヤジが多数集まることが目に見えてるイベントに、おそらく自分は彼らに相当嫌われているであろう、ということを百も承知ながら、あえてB'zとしてではなく、単身で乗り込んでいった稲葉浩志の心意気。これを“ロック”と言わずして何と言おう。火災報知機のボタンを押す行為も“ロック”というのであれば、稲葉浩志の心意気は、その1万倍は“ロック”だろう。ただ悲しいかな、その心意気は結果的にロックオヤジに届くことは無かった。でもいいじゃないか。彼にはあと37年時間がある。

稲葉浩志が今年の夏のロックフェスに出演することを、“無謀”という人がいるが。そんな人に送りたい言葉がある。

“ロックと無謀は紙一重”だということを。